毎日が清水の舞台

自己肯定感が低いゆえに毎日が挑戦の日々

【読書】ニムロッド

第160回芥川賞受賞作、上田岳弘著『ニムロッド』

積読になってたのを、kindleiPhoneの読み上げ機能の合わせ技で読了。

社長命令で会社の空きサーバーでビットコインを掘ることになった主人公、中本哲史。

元同僚で友人の荷室仁(ニックネーム:ニムロッド)から時々「駄目な飛行機コレクション」メッセージが送られてくる。

交際相手である田久保紀子との関係は悪くないが、お互い踏み込みすぎるつもりもない。

 

 

さて、これはなかなかぼんやりしたストーリーテリングのようで、読み解きには補助線が必要。

まず最初の補助線は

デジタルデータがないと、生きている人間でもいないみたいに感じる。

この人みたいにさ。安西相談役のフォルダの中以外に、この人の痕跡はどこにもない。

写真の中だけにしかいない人みたいだ。

俺たちがフォルダを消したら、この人を丸ごと消してしまうような感じがする。

 

もうひとつが、

サピエンス全史における「虚構」の考え方。

まったく存在しないものについての情報を伝達する能力

見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力

 

中村にとって、田久保紀子は触れることのできる「リアル」の存在だ。

同様にニムロッドも、隣に座って時間を過ごすことのできる「リアル」だ。

しかし、田久保紀子にとってのニムロッド、ニムロッドにとっての田久保紀子はどちらも中村の話す中にしか存在しない「虚構」である。

中村が話題にしなくなった瞬間、田久保紀子にとってのニムロッド、ニムロッドにとっての田久保紀子は各自の世界から存在しなくなると言っていい。

 

その二人が終盤に「初対面」を果たすシーンも決して「リアル」じゃない。

互いに中村の仲介による社内コミュニケーションソフトとLINEのビデオ通話という二重の電子データに変換処理されての対面だ。

彼らはどちらにとっても、リアルからほど遠い「虚構」であり続ける。

 

 

それはビットコインとどう違うのか。

ビットコインはどこかの誰かのコンピュータが帳簿を書くことで存在する。

本書でも言っているが、シュレディンガーの寓話よろしく、

「観測」されることで存在する存在。

ja.wikipedia.org

 

 

3度目の新人作家の応募賞落選から鬱を発症したニムロッドも、他者から「観測」(認知)されないことで存在できなくなったのじゃないか。

自らの存在を発信し世間に見つけられることで、実存を証明しなければいけないという思いに捕らわれていたんじゃないのか。

 

 

一方で、「駄目な飛行機」たちは忘れられた存在であり、観測に値する意味も持たず、しかし間違いなく存在する。

いや実際にまとめサイトあるから。

web.archive.org

 

 

ビットコインを「掘る」ことでビットコインの存在を観測する中本。

田久保紀子に触れることで彼女を観測する中本。

ニムロッドから送られてくる小説を読むことで書き手・荷室仁を観測する中本。

 

中本は、観測することで、彼らの存在を担保する語り手だ。

 

 

 

現代のビッグデータの中に、私たちの存在は、生活は、人生はひたすらに記録され情報を貯蔵されていっている。

お金やものの流通データ。

どこに行って何をしたかの行動データ。

メールやSNSによる思考データ。

そこにデータがあることこそが、私たちがそこにいた証となっていく。

 

では、デジタルデータで存在を確認できないものは本当に「存在」するのか。

それは「虚構」ではないのか。

 

 

 

ビッグデータの欠損がひとりの人間の存在を透明にしてしまうSF小説もある。

脳内に埋め込んだチップ(FEED)で24時間ネットワークにつながっている世代の若者たち。

検索履歴や買い物の履歴から、彼らの性格や嗜好、人物像はネット上にバックアップされている。

ひとりの少女は、その履歴をあえて統一性のないものにしたらどうなるかと面白半分に実験を始めるが、その矢先に彼女のFEEDが故障し、新しいチップに人格をインストールする必要に迫られる。

けれど、それには大きな問題が……?

 

 

 

「観測」されることでしか存在を確保できなかった登場人物たちが、それぞれ無意識に求めていた「観測されること」の呪縛から解放されていくエンディングは、清々しさの中にわずかの寂しさもある。

 

 

わたしたちは、実体のある幽霊になっていくのか、実存しないリアルになるのか。

それが問題だ。