毎日が清水の舞台

自己肯定感が低いゆえに毎日が挑戦の日々

【読書】海の見える理髪店

荻原浩の短編集。

 

年齢も性別もバラバラの登場人物たちが、ふと向き合う家族との、親との、つれあいとの、子どもとの関係に差す影の息苦しさ。

 

なんか、読み終わったときはなにかがよかった気がしたのに、一冊の本として読み解こうと思ったら途端に破綻してる気がしてきた。(途中になんかオカルト話挟むし!)

個々の話はベクトルがあるかもしれないけど、短編集として見ると、まとまっているようで歪(いびつ)だ。

 

その世界観の中に浸ってるあいだは重要な意味があるような気がするのに、一歩離れて全体を見渡したら大した意味なくてむしろ歪(いびつ)?

それって、家族や親子関係がまさにそうじゃないの?

 

 

親と子供、って関係性は最小の世界の単位だよな。

子供にとって親が世界の全てだったりする。

生まれて育つにあたって、どんなに歪で異常だとしても、子供にとっては親の存在が、親の定める世界観が絶対的なもんで、それが異常なことも歪なことも外に出てみないと気付けないことも多い。

 

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ただ、私がこの本で許せないのは、最初の一作で

「子供にとっていい親じゃなかった親も、必死に生きた一人の人間なんだよ」

ってまず言い訳の線を引いてきたこと。

この一作があることで、他のどの話に踏み込んでも、親の歪さに免罪符が与えられてしまった。

どんなに歪でも親なりに必死に生きていたのだから子供は受け入れるべき、みたいな無言の方向性を確立してきたことが業腹だ。

 

親が子供に押し付けた理不尽を、幼少期の子供を取り巻いた歪さを許すことを、

親の愛情の滑稽さや親の人間性の未熟さを言い訳にして乞うべきじゃないと思う。

 

子供が親を許すのが自然であり愛である、とは私は思わない。

子供なら親を許すことが当然だと、許すことが正しいと、

許してほしいと、良心と罪悪感に訴えるのは残酷なことだと、思う。

 

悲喜交々なヒューマン系家族もの、の皮を被って、とんだ皮肉と暗いものを投げかけてくる一冊だったみたい。