毎日が清水の舞台

自己肯定感が低いゆえに毎日が挑戦の日々

【ドラマ】わたしを離さないで

ドラマっていう長さだから描けた、彼らの関係性や希望と絶望と虚しさや帰結が、このドラマでは伝わりすぎるくらい伝わってきた。

ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロの小説を元にした日本ドラマ。

こっちは本国イギリスでの映画化。

映画じゃ展開と説明が早くてよくわからなかったっけ。

 

閉鎖的な全寮制学校で育てられる少年少女たちは、実はクローン技術で生み出された「提供者」。

臓器提供ドナーになるべく生み出され、育てられている。

彼らは崇高な使命を負った天使なのか?

意思と心を持った、ただの人間なのか?

 

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dazads.hatenablog.com

 

 

なんていうか、すごく重たいテーマを扱っているはずなのに、一部すごく個人的な人間関係の話に収まっちゃってるような。

 

子供時代〜陽光学園を卒業するあたりまでは、

「提供者」として檻に囲われ監視されてること、

本来当然に描けるはずの「将来」がない希望のなさ、

そういうものが主人公たちに迫ってきて、あぁ、彼らは「生かされてる」「育成されてる」存在なんだって空気があった。

 

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そこからコテージ(というか下宿?)に移ってからはとにかく美和が嫌な女すぎて、「提供者」として他者のために死ななきゃいけないとかそういう悲惨な面を上回っちゃってるよな……彼女には何一つ共感できなかった。

 

真実(まなみ)のエピソードが、ある意味ピーク。

「「提供者」を作らなきゃいけないなら、せめて、考えないようにして。

この命は自分のものなんじゃないかなんて、考えないですむように」

心を感情任せに引き裂くような、悲痛な言葉だった。

人間なのに、人間じゃないって他者に生殺与奪を握られて、自分の命を、人生を、自分のものとして生きることができない苦しみの悲鳴だった。

 

あれ、このフレーズ、前も考えたなぁ。

dazads.hatenablog.com

 

「提供者」である彼ら彼女らは、「家畜」と蔑まれるシーンもあった。かつての奴隷と、どう違った?

見たことのある黒人奴隷に関する映画では、奴隷たちはみんな希望も生気もない幽鬼のような存在として描かれてた。

それらと比べると、このドラマの中で感情や希望や絶望に振り回されてる「提供者」たちは余程気力に満ちてるようだった。

 

考えることもできずただ流されて生きて死ぬのと、

自分を保ちながら希望を奪われて絶望の中で死に向かって生きるのと。

どっちがマシなんだろうか。

 

どっちが「幸福」なのか、なんて議論は今はするつもりないけど。

 

 

「生まれてきてよかったと思えるものを見つけて」

真実の宿題は、決して運命の定められてる「提供者」だけのための言葉じゃない。

生まれたことに定められた目的がないわたしたちにこそ、課せられた宿題なのかも。

 

恭子が生き残ってしまったことを、よかったとは思えないなぁ。

生きろと押し戻したかのようなあのメッセージは、大切な人たちを失って、これからも見送り続けるだろう恭子にとっては残酷な愛に違いなかった。