感情は勘定に入れません
ロシアがウクライナへ軍事攻勢に出て5日になる。
毎日「なんでこんなことを」「悲しい」「戦争反対」って、TVもSNSもどのメディアも論じ嘆き続けてる。
状況を理解しておくことは必要だから、全体を把握できる程度に情報はとっているけれど、正直全部の声が耳に入ってくるとなかなかにしんどい。
悲しいのは当然だ。
ウクライナの映像に、助けを求める声に、こんなことはいけないって思うことも大事だ。
そこで苦しんでる人たちがいることを知らないふりをするのは嫌だとも思う。
「知っている」ことは自分で意見を持ち、判断し決断できるようにあるために必要不可欠だ。
知ろうとすることを怠りたくはない。
かつて戦争が起きたのは、そして戦争が終わらなかったのは、一部の「知っている」人たちが「知らない」人たちから情報を取り上げて自分で考えたり決めたりすることができないように仕組んだからだった。
世界の端から端まで情報で満ち満ちた現代において、そんな横暴は長続きするはずないと思う。
「知る」努力は怠りたくない。悲しいのは当然。
ただ、感情に捉われるような「知り方」は暴走しやすい。
感情を煽る情報に触れ続けると、感情的な情報に触れ続けると、しんどくなる。
不安になって、もっと情報が必要な気になる。
距離感は、間違えたくない。